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「ロックで学ぶ現代社会」rock meets education

第1部 『現代社会における人間と文化』〜現代社会の特質と青年期の課題

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第2章 "若さ"の社会的意味

1.アイデンティティの危機

*大 坂 「さて,ビートルズの『ヘルプ!』を聞いて,"若さ"というものの意味について少しは分かってもらえたと思うけれど,次は…」

*B 君 「先生,話はもういいから早く音楽聞かせてよ。」

*Aさん 「そうそう,先生,まだまだいろんな曲が聞けるんでしょう?」

*大 坂 「ははは,音楽の授業じゃないんだからね。でも,ま,いいか。じゃあ,この曲を聴いてみよう。有名な曲だから君たちもきっと知っていると思うけれど。カーペンターズの『イエスタデイ・ワンス・モア』という曲だ。とってもすてきな曲だよ。」

YESTERDAY ONCE MORE Carpenters 1973

イエスタデイ・ワンス・モア カーペンターズ 1973年

*Aさん 「わー先生,これすごくすてきな曲ですね。長調の曲なんだけど何かすごい哀愁があって,私も聞いていると何だか涙が出そう。」

*B 君 「特に僕これを歌っている女の人の声好きだなぁ。すごく聞き易くて,メロディが自然に体にしみ込んでくるみたい。」

*Aさん 「ねえ,先生。このカーペンターズっていうのはどんな人なんですか。この女の人,何かものすごく性格が良さそう。」

*大 坂 「へぇAさん,歌聞いただけで性格まで分かるの?今度一緒にカラオケでも行く?私の性格の良さが分かってくれるかな。」

*Aさん 「先生とはイヤッ!」

*大 坂 「こりゃご挨拶だね。まあとにかく,この大ヒット曲『イエスタデイ・ワンス・モア』を歌っているカーペンターズは,兄のリチャードと妹のカレンのカーペンター兄妹のことなんだ。特にこのカレンののびのびと透き通った歌声は1970年代半ばに一世を風靡して,日本でも一時はビートルズに勝るとも劣らぬ人気デュオだったんだよ。」

*B 君 「でも,最近はどうしてるんですか?あんまり聞いたことないけど。」

*大 坂 「実はね,残念ながらカレン=カーペンターは1983年に亡くなってしまったんだ。」

*Aさん 「えー残念。病気ですか?事故ですか?」

*大 坂 「うーん,何ていったらいいのかな。実はね…。」

 1970年代半ばに一世を風靡したヴォーカル・グループ,カーペンターズは,兄リチャード=カーペンターの優れた音楽的才能と妹カレンののびのびと澄みきった歌声によって,この『イエスタデイ・ワンス・モア』のほか,『シング』,『涙の乗車券』,『ジャンバラヤ』,『トップ・オヴ・ザ・ワールド』などの大ヒット曲を連発,世界中で3000万枚以上のレコードを売り上げ70年代最高のスーパースターとなった。ところで,このカレン=カーペンター,スターになりマスコミへの露出度が増えるとともに,彼女自身は特に太っているというほどのことはなかったのだが,若い女性の常として自分の体型が気になってきた。そこで猛烈なダイエットを開始したわけであるが,やがて彼女は"ダイエットのためのダイエット"の悪循環に陥り,やせ薬を多用する過激な方法に走り,60キログラム近かった体重が一時は30キロ代の"激ヤセ"状態にまで落ち,ついには入院するはめとなった。しかし,症状は回復せず,カレンはガリガリにやせ衰えて両親の家で倒れ,担ぎ込まれた病院で衰弱死したのである。
(参考『FOCUS』1983年2月18日号)

*Aさん 「えー,かわいそう。でも,どうしてそんなに死ぬまでダイエットをできたのかな?私は,すぐ挫折しちゃうけど。」

*B 君 「だから生きてるんじゃない!ダイエットは失敗したけど。」

*Aさん 「もーうるさい!気にしてるんだから!」

*大 坂 「Aさんは,朝学校来る前にどのぐらい鏡の前に立つかな?」

*Aさん 「何ですか,突然そんなこと聞いたりして…。でも,20分くらいかしら。朝は戦争みたいに忙しいけれど,やっぱり女の子ですもの,身だしなみには気をつけますよ。」

*大 坂 「そうだろうね。女子生徒の中には,朝『髪の毛が跳ねちゃってるから今日は学校お休みします』なんて電話をかけてくる人がいるものね。」

*B 君 「そんなに時間かけたって無駄じゃないの?」

*Aさん 「もー,また余計なこと言う!」

*大 坂 「ははは,でもねAさん,君は小学校のときも同じように毎朝20分鏡の前で身だしなみを整えていたかな?」

*Aさん 「えー,よく覚えていないけれど,そういえばあんまり鏡の前に立った記憶はないですねぇ…。」

*大 坂 「そうだろう?それが,今はとても鏡を見ずには外に出ることができない。これはどういうことだろう?」

*Aさん 「でも先生,私が鏡を見るのとカレンさんが死んだこととはどんな関係があるんですか?」

*大 坂 「それはね…。」

 『HELP!』の解説でも述べたように,青年期とは「自分が他人とは違う何か特別の"自分"という存在であるということを悟る時代である("自我"の目覚め)。しかしながら,その自分がどんな自分か分からないという"アイデンティティの危機"に陥ることがある。だからこそ悩み苦しむと述べた。ところが,このような状況においては,自分自身に自信が持てないあまり他人が自分のことをどう評価しているかが気になってたまらなくなることがある。そして,本当の自分をつかみあぐねて強い理想主義に陥り,「理想とする自分」と「本当の自分」のギャップに悩むのだ。そして,往々にしてそこからは大きな劣等感が生まれ,新しい苦悩が始まる。だからこそ,若者は(男女を問わず)自分を少しでも「理想的な自分」に近づけるために鏡の前から離れることができず,「髪の毛が跳ねている」ことが十分学校の欠席の理由になりうるのである。カレン=カーペンターも同じであったのだろう。レコードが売れ続け,スーパース ターになってゆく自分。しかし,彼女の目にはその「スーパースター」がただのデブに見えてきた。それが彼女の悲劇の始まりであった。そこから,彼女は"死のダイエット"を開始したのであるから。

*Aさん 「へー,そんな話を聞くと,あんなにすてきな『イエスタデイ・ワンス・モア』が何だか悲しく聞こえてきちゃうわ。」

*B 君 「でも,"オバタリアン"が,むちゃくちゃな格好で道を歩いている理由がやっと分かりました。あの人たちは,アイデンティティを確立しちゃったんですね。」

*Aさん 「えー,それってどういうこと?」

*B 君 「つまり,『自分は自分よ,どうせこんなオバさんなんだからいまさらカッコつけたってしょうがないでしょう』ということが分かったってこと。」

*Aさん 「あ,なるほど。だからウチの隣のオバさんはパジャマでゴミ出しができるんだ。」

*大 坂 「おいおい,あんまり話を飛躍させすぎないように。ま,そんなに間違ってはいないけれどね。結局"おとな"が高校生ほど鏡の中の自分を気にしなくなるのは,年月をかけて自我を見つめていく中で本当の自分がどんなものかが分かってきて,つまりアイデンティティが確立してきて,よく言えば"これが本当の自分なのだからありのままの自分を受け入れて,長所も欠点も含めてその『本物の自分』を受け止めてゆかなければならないということが分かっているから,と言えるのじゃないかな。」

*B 君 「分かった?Aさん。今はつらいだろうけれど,大人になるまで我慢するんだよ。」

*Aさん 「あー,ウルサイ!」

 しかし,その後の研究によるとカレンの死にはもっと深い理由が隠されていることが分かってきた。

 神童,天才と近所でも評判だった兄リチャードは両親の期待を一身に受けて育ち,カレンは家庭では常にナンバー2の存在であった。また兄とともに最初に組んだバンドにおいても,カレンはドラマーとしての役割を与えられ,脚光を浴びるのは常に兄のリチャードであった。

 しかし,レコードデビューに当たってカレンの伸びやかな声に注目したプロデューサーは,カレンをリードボーカルに立てることを決定し,皮肉なことに,ここからカレンの悲劇が始まった。

 TVカメラが追うのは常にカレン。インタビューアーのマイクもカレンに向けられ,メディアが取り上げるのはカレンばかり…。

 ここから,カレンのストレスが巨大化してくる。

「おかしい!今までずっとお兄ちゃんが一番,私は二番。お兄ちゃんが主役,私は脇役だったはずなのに。なぜ…。」

 今まで作り上げられてきた,この「仮のアイデンティティ」の崩壊によって,カレンの精神もまた崩壊していったのだと・・・。

2."こども"と"おとな"のはざまで〜「マージナル・マン」と「モラトリアム人間」

*大 坂 「ところでAさん,君は自分のことを"おとな"だと思うかな,それともまだまだ"こども"だと思うかな?」

*Aさん 「うーん,やっぱり高校生だからまだ"こども"かなぁ。でも先生,体はもう"お・と・な"よ。」

*大 坂 「……Aさん,君,最近キャラクターが変わってきたね。」

*Aさん 「もう,先生,冗談ですよ,冗談!そんな顔して見ないでください。」

*B 君 「なるほど,腹回りはもうオバサンってわけか。」

*Aさん 「ウルサイ!でも先生,何でそんなこと聞くんですか?」

*大 坂 「いや,"青年期"とは"成長過程にある時期"だって言ったね。だったら,青春の真っ盛りにいる君たち高校生はいったいどのように振る舞うべきなのか考えてゆこうと思ってね。だって,成長期にあるんだったらまだまだ"こども"だろう?でも,妙じゃないかな?電車やバスに乗ったら大人料金取られるんだものね。だから"若者"はいったい"おとな"なのか"こども"なのか,それを考えてみると現代の若者が置かれている立場がよく分かるのじゃないかと思うんだよ。」

*Aさん 「そうそう,うちのお父さんなんて"こどものくせに"と言ったかと思うとすぐ"もうおとななんだから"なんて,いったいどっちなのかはっきりさせてもらいたいわ!」

*B 君 「そうだよ。大人料金払って,わざわざバスに乗ってレンタル屋へ行っても貸してくれないビデオがあるんだものな。」

*Aさん 「怒るわよ!まじめに話してるのに!」

*大 坂 「ははは,それはそれとして,どうやら"青年期"というのは"おとな"と"こども"の中間期だってことが分かってきたと思う。つまり『もう"こども"とはいえないけれどまだ"おとな"ではない』という中間期なんだな。」

*B 君 「それは,『ヘルプ!』の授業のときにもう勉強したじゃないですか?」

*Aさん 「そうですよ先生。青年期とは"第2次性徴が始まる小学校高学年くらいから,肉体的成長が終わる30歳ころまで"っておっしゃったじゃないですか。もう忘れたんですか?」

*大 坂 「おいおい,まだボケるには早いと思うよ。覚えているんだけれど,今日は"青年期の歴史"について考えてみたいと思うんだ。」

*Aさん 「何で青年期に"歴史"なんかがあるんですか?」

*大 坂 「つまりね,昔も"青年期"は存在したのかなってことなんだ。」

*B 君 「やっぱりボケたんじゃないですか?縄文時代には10歳の子どもが1年で30歳になったとでも言うんですか?」

*大 坂 「いや,そういうわけじゃなくて…」

 奇妙に聞こえるかもしれないが,実は原始時代には"青年期はなかった"のである。もちろん,北京原人もクロマニョン人も16歳の娘もいれば20歳の男だっていた。しかし,彼らは"若者"ではなかったのである。逆説めいて聞こえるが決して無理な議論ではない。

 "若者"とは"青年"とは"青年期"とは,一体何だろう?それは"発展途上にある時期"であると言った。そして,実はその意味では原始時代には"青年期"は存在しなかったのである。つまり,前近代の社会においては,"こども"はある一定の年齢に達し体力的に親と同等の仕事をこなすことができるようになると,そのときから突然"おとな"とみなされた。前近代社会においては,社会の構成員になるに当たって学習・習得しなければならない知識・技術の総量は現在とは比べ物にならないほど少なかった。そのため"こども"は単に「小さな"おとな"」であり,ある日突然"おとな"になることが可能であったのである。そして,その日はひとつのセレモニーをもって迎えられた。日本における元服の儀式がそれに当たるし,最近は遊園地などでも行われるようになったバンジー・ジャンプも,もともとは東南アジアの一部の民族に見られる,"こども"が一気に"おとな"になるときの儀式であった。(その他にも,歯を抜いたり,体に入れ墨を施したりする場合など,多くの場合"こども"にある一定の苦痛を与え,それに耐えたときから社会が,その"こども"を"おとな"として受け入れることが一般的である。)そして,このような通過儀礼の儀式のことを「成年式」("はじまり"と言う意味で,イニシエイション initiation)という。(ちなみにオウム真理教問題でこの言葉がよく聞かれたが,あれは"信仰の始まりとしての入信式"と言うような意味である)

 ところが,複雑怪奇な現代社会においては"こども"は体が大きくなっただけでは,一人前の"おとな"とみなすわけにはいかなくなってきた。"おとな"になるためには,非常に多くの,知識・技術を習得しなければならなくなったのである。つまり,"青年"とは社会の発展とともに新たに生まれてきた概念なのである。そして,それは現代になるにしたがって加速度的に長期化してきた。つい40年くらい前までは,最終学歴が中学卒業でも十分社会人としてやってゆくことができたのに,現在は高等学校への進学率が90パーセントを大きく越え,さらに大学や短大などへ進む者も40パーセントを越える。このことは,社会がどんどん複雑化し,その社会がもはや中学校卒業程度の知識・技術力では人間をますます一人前の"おとな"として評価できなくなっていることを示している。この傾向はこれからさらに強まっていくだろうと思われる。つまり,現状では中・高生(おうおうにして大学生も)はとても"おとな"とは呼べないのである。ところが,彼らはすでに第2次性徴の現れる時期を終え,肉体的にはもはや"こども"とは言えなくなっている。20歳過ぎれば,学生であっても法律的には立派な"おとな"である。ところが彼らは,いまだ社会が彼らがさまざまな勉強を修めて「"おとな"になるのを待ってくれている(猶予してくれている)時期」にいるのである。これを,もともと経済学用語で"(借金の返済)猶予期間"という意味の言葉を使って「モラトリアム」という。そして,彼ら青年は「もう"こども"ではないが,まだ"おとな"ではない」という中間的(マージナル)な地位に置かれていることになることから「マージナル・マン」(周辺人・境界人)とも呼ばれる。これはもともと社会学用語で,ある社会において,そこに居住しているものの完全にはその構成員になれないためにさまざまな差別を受けるなど,たとえばヨーロッパのキリスト教社会におけるユダヤ人とか,日本の在日韓国・朝鮮人のように複雑な立場にいる人々のことを指す言葉であった。つまり,青年・若者とは「モラトリアム」の時期にいる「マージナル・マン」なのである。

*B 君 「先生,何訳の分からないこと言ってるんですか。そんな難しいことばかり言っていると高校生に嫌われますよ。」

*大 坂 「ほーいい度胸だ,B君。間もなく期末考査だということを忘れているようだね。」

*B 君 「ひぇー先生,どうかご慈悲を。」

*大 坂 「えーい,ゆるさん。そこへ直れ。」

*Aさん 「先生…,本当に嫌われますよ。」

*大 坂 「ごめんなさい…。」

*Aさん 「とにかく先生,もう少し分かりやすく説明してくださいよ。」

*大 坂 「はい。えーとね,最初にも言ったように,君たち若者は現在『もう"こども"ではないけれどもまだ"おとな"ではない』中間の時期にいると言ったね。」

*Aさん 「はい。そしてそれを『マージナル・マン』とか『モラトリアム』の時期とか言うのでしょう?」

*大 坂 「そうそう。そのとおり。それでね,何が言いたいかというと,その『マージナル・マン』とか『モラトリアム』の時期の『青年期』がいかに苦しい時期かということなんだな。」

*B 君 「それはずっと話を聞いてきたら何となく分かることだけれど,具体的にはどういうことなんでしょう?」

*大 坂 「B君,君,ラブレターを書いたことあるかい?」

*B 君 「ゲホッ…,何ですか突然!だから,その…,そんなことどうでもいいじゃないですか。」

*Aさん 「ということは,書いたことがあるってわけね。」

*B 君 「えっ,違うよ。だから,その,あれは,だから…」

*大 坂 「ああ,もう分かった,分かった。B君は人間が正直だねぇ。」

*Aさん 「先生,B君をいじめて楽しんでいるんですか?悪趣味!」

*大 坂 「バカ言いなさい。わたしは,まじめに青年期の諸問題に取り組んでいるんだから。」

*Aさん 「もー,どうだか。」

*大 坂 「ゴホン。とにかくだねぇ,ラブレターを出して彼女から返事が来るのを待っている時間っていうのは,どんな気分だろうかなっていうことさ。」

*Aさん 「そりゃあもう,ハラハラ,ドキドキものでしょう。私のか弱い乙女心はそんなプレッシャーにはとても耐えられないわ。男の子もかわいそうだから,私は,ラブレターもらったらできるだけ早くお断りの返事を出すようにしてるの。」

*B 君 「見栄っ張り…。」

*Aさん 「えっ,B君,今なんか言った?」

*B 君 「いいえ,いいえ。滅相もございません。もう,先生,変なことになるから早く話題を変えましょう。」

*大 坂 「変なことじゃないよ。大切な勉強だ。とにかく,何が言いたいかっていうとね,ラブレターもらって返事を"待っている"時間というのは,決して気分のいいものではないだろうってことさ。」

*Aさん 「本当にね。だから私は,早めに返事を書いてあげるようにして…」

*B 君 「はいはい,それで。」

*大 坂 「ラブレターの返事だけじゃなくて,君たち全員に経験があることで例を挙げれば,たとえば,高校入試を受けたときのことを思い出してごらん。入試を受けて合格発表までの間の期間は,どんな気分だったかな?」

*B 君 「そうですねぇ,とにかく毎日いらいらして生きた心地がしなかったなあ。」

*Aさん 「あら,そう?私は初めから合格間違いなしだったから,気楽だったけれどね。」

*B 君 「Aさん,今日はずいぶん見栄張るね。」

*大 坂 「まあそれはそれとして,とにかく何かが決定していなくてそ結果を待っている間というものは,普通はとっても辛いものだね。入試の結果発表を待っている時期というのは,『もう中学生じゃないのだけれどまだ高校生ではない』というマージナルな時期だよね。ラブレターの返事を待っているときも,『もう"ともだち"には戻れないけれどまだ"恋人"ではない』中途半端な時期。少し視点は違うけれど,借金の返済を待ってもらっているときも決して気分のいいものじゃない。」

*B 君 「で,青年期が『もう"こども"じゃないけれどまだ"おとな"ではない』時期だということは…。」

*Aさん 「私たちは今,宙ぶらりんの時期でとっても苦しいときだってことですね,先生。」

*大 坂 「そうそう,そのとおり。」

 人間はその生活において「決まらない時間」には生理的に不快感を持つ。今会話にもあったように,入試の合格発表を待っている時期とか,ラブレターの返事を待っている時期とかいうのは "一刻も早く抜け出したい"苦痛の時期である。その他にも,転校や転勤,引っ越しなどをしてもう以前の学校や職場や地域の人間ではなくなってしまったけれども,まだ新しい場所で自分の居場所が見つからないというような時期もやはり苦痛を感じる時間である。このようなマージナル(中間的・どっちつかず)の時期にはそれ特有の困難がつきまとう。そして,「青年期」とはまさにそのような時期なのである。"おとな"は青年をもう「保護すべき,か弱い"こども"」としては扱ってくれないが,いまだ自分たちと同等の社会の構成員とは認めてくれない。例を挙げれば,16歳以上の人には許されているオートバイの運転免許取得が多くの高校では校則で禁止されていたり,男性18歳女性16歳になれば法律的には許される結婚も,20歳そこそこでは「まだ若すぎる」と反対の対象になることも多かったり,"おとな"と同等の,あるいは"おとな"よりはるかに激しい性のエネルギーを持ちながら,それを現実の行動に移せば「不純異性交遊」のレッテルを張られ糾弾を受けることになる。つまり,青年期・若者というのは,四六時中さまざまなことで規制・束縛を受け,自分たちが求める"自由"を享受できない,"檻の中のサル"状態に置かれているということができる。そして,そこから青年期特有のさまざまな問題が発生してくるのである。

*B 君 「なるほどね。この間の拒食症の話もそんな中途半端な苦しみから生まれたんですね。」

*Aさん 「イジメとか,自殺とか,青少年の犯罪とかも結局私たちがマージナルな時期にいるということから起こる問題なんですね。」

*大 坂 「そうだね,それではそんな行き場を失った"若者"について,この曲を聴いて考えてみよう。」

*B 君 「待ってました!」

NOWHERE MAN The Beatles 1965

ひとりぼっちのあいつ ザ=ビートルズ 1965年

*B 君 「この"ノーウェア・マン"っていうのが,若者のことなんですか?」

*Aさん 「直訳すると『どこにもいない人』っていうことでしょう?いったいどういうことなんでしょう?」

*大 坂 「確かに分かりにくい曲だけど,こんなふうに考えてみるといいんじゃないかな?」

 もう"こども"ではないがまだ"おとな"ではないというマージナルな時期にいる青年は,ときとしてみずからのアイデンティティを見失い,非社会的行動(不登校・自殺など)・反社会的行動(暴力・犯罪行為など)に走る場合がある。そして,そのとき若者は往々にして"自分の世界"に閉じこもり,他人の意見を聞こうとはせず,この先自分がどうなるのかあるいは,どう生きてゆけばいいのかという明確なビジョンが持てなくなることもある。ジョン=レノンの絡みつくようなボーカルが印象的なこの "NOWHERE MAN"は,彼が単純なラブソングから脱却し詞の面で哲学的なアプローチを見せ始めたアルバム『ラバー=ソウル』の中の一曲であるが,ここでは自分の世界に閉じこもり他の現実社会との交渉を断絶した"ひとりぼっち"の人間の姿が描かれている。これは,見方によれば偏執狂的な"オタク族"の姿にもとることができるし,好意的に見れば非常に先進的・独創的な科学者やアヴァンギャルドな前衛芸術家の姿にも見える。しかし,ここではこの"NOWHERE MAN" を我々誰の中にも住んでいる,

「まったく 回りが見えず 自分の見たいものしか 見ようとはしない」

"非妥協的な"自分の姿として捕らえてみたい。そして,それこそは若者の典型的な姿ではないだろうか。だからこそジョン=レノンは,

「でも あいつは ちょっと僕たちに似ていないかい?」 と言うのだ。しかし,若者はその理想を純粋に非妥協的に追い求め,ときとして"おとな"と摩擦を繰り返す。我々は中間的な青年期を卒業し"おとな"になってゆくとともに,悪く言えば世間と妥協を繰り返し現実社会で生きるために「夢」を捨ててゆくのだが,よく言えば外の社会に対して心の扉を開いて(『ヘルプ!』における "I've opened up the doors")外的世界と共存共栄の道を歩むようになる。慌てることも焦ることもなく,それは人間としての成長の過程で必ずやって来る瞬間なのであると,ジョンはこう歌うのだ。

「ひとりぼっちの男よ 心配は無用   ゆっくりやろう 急ぐことはない
  誰かが手を貸してくれるまで 何もかも放っておけばいいのさ」

こうして,この曲は青年期の非妥協性と純粋性を歌いながら,その解決策を示しているということができるだろう。

3.ジェネレーション=ギャップ

*Aさん 「ねえ,ちょっと聞いてくれる?」

*B 君 「どうしたんだよ?そんなにあらたまって。」

*Aさん 「昨日ね,学校から帰って部屋に入ったら何かおかしいの。」

*B 君 「漫才でもやってたの?」

*Aさん 「もー,まじめに聞きなさいよ!あのね,何か机の上が違うのよ。物の置き場所とか…。それで,気になって調べてみたら,どうもね昼のうちにお母さんが私の日記を盗み読みしてるみたいなの,この間から私しか知らないはずのことをほのめかしたりするものだからどうもおかしいとは思っていたんだけど。それで,夕べそれ,お母さんに言ったのよ。そうしたらどうしたと思う?開き直っちゃって,『あんたのことが心配だから読んだのよ,最近あんまり話もしてくれないんだから』なんて逆に文句言うんだから!だって,話しなんかできるわけないでしょう?こっちは部活や塾通いで忙しいんだし,だいたい親なんて私のこと何にも分かっていないくせに,あれするな,これするなって文句ばっかり,どうせ話をしたって分かってくれっこないもの!ちょっと!B君!聞いてるの?!」

*B 君 「あ,はいはい。それで?」

*Aさん 「もー,だいたいねぇ,親なんて絶対子どもの気持ちなんて分りっこないんだから,話するだけ時間の無駄よ!それを,あーだこーだブツブツ言って,最後に必ず言うのが『あんたのためを思って言ってるのよ』なんて,大きなお世話よ!」

*大 坂 「どうしたの?Aさん。えらいけんまくだね?」

*Aさん 「あっ先生,いらっしゃったんですか?」

*大 坂 「で,日記帳にはどんな秘密が書いてあったのかな?」

*Aさん 「きゃー,嫌だ!先生,盗み聞きしてたんですね!」

*大 坂 「おいおい,盗み聞きなんて人聞きの悪い。別に聞き耳立てていたわけじゃないけれど,あんなに大声で騒いでいたら学校中聞こえているよ。」

*Aさん 「もー,先生,絶対内緒ですよ!」

*大 坂 「ああ,分かった分かった。でも,私にはお母さんの気持ちもちょっと分かるなぁ?」

*Aさん 「イヤダ!先生,お母さんの味方するんですか?これだから"おとな"ってイヤ!絶対分かってくれないんだもの。」

*大 坂 「まあそう怒るなよ。別に黙って日記を読んでもいいって言ってるわけじゃないんだから。ただね,親子の関係なんて昔からいい意味での"緊張感"を保ってきたんだ。親とはそういうものだし,"こども"はやっぱりそういうものなんだ。」

*B 君 「なにわけの分からない禅問答みたいなことを言ってるんですか,先生?」

*大 坂 「いや,親は子どもがかわいいからね,子どものことは何でも知っていたいし,逆に子どもが自分が信じた幸せからはずれてゆこうとするとどうしようもなく心配になるものなんだよ。それでも,君たちの方も幼い頃はお父さんやお母さんの言うことは絶対の命令でそれに背くは考えもつかなかったけれど,青年期になり自我(エゴ)が芽生えてきてからは,それが,過干渉に思えてきて,いちいち親の言うことに腹が立つようになったってわけだ。ま,健全に成長している証拠だよ。」

*Aさん 「もー,人ごとだと思って!」

*B 君 「でも,何だか話が授業みたいになってきましたね。まさか,またロックが出てくるんじゃないでしょうねぇ?」

*大 坂 「よし,じゃあ次の時間は"アイデンティティの危機と親子の断絶"といこう。曲はビートルズの『シーズ・リーヴィング・ホーム』だ!」

*B 君 「もー,すぐノるんだから…。」

SHE'S LEAVING HOME The Beatles 1967

シーズ・リーヴィング・ホーム ザ=ビートルズ 1967年

*大 坂 「どうだい?今から30年近く前の曲だけど,親子を取り巻く状況なんてあんまり変わっていないだろう?」

*Aさん 「本当ですね。私はまだ家出までは考えたことはないけれど,時々家にいるのがとっても嫌になることがあるもの…。」

*B 君 「ま,どこの親もこんなものさ。口では『こどものため』と言いながら,結局は何でも自分たちのためにやってるだけなんだから。この家出した女の子の気持ちはよく分かるよ。」

*大 坂 「特に『彼女の心の中にあるものは 何年も何年も 父や母には 認められなかった』というフレーズは何かドキッとするものがあるね。君たちも家族に囲まれて暮らしていながら,夜中にふと『私はひとりぼっち』なんて涙が出てくることはないかな?」

*B 君 「おやおや先生,なかなか詩人ですね。」

*大 坂 「ちゃかすな!まじめに話をしているんだから…。」

*Aさん 「でも先生,親子喧嘩が"青年期の特質"に関係あるんですか?」

*大 坂 「おおありだよ。だからね…。」

 1967年,ビートルズはアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を発表した。このアルバムは"ロックの金字塔"と言われ,識者をして『1960年代という時代を語るために,何かひとつだけタイムカプセルに入れるとすれば,このアルバムをおいてほかにはない』と言わせた歴史的アルバムであった。ニューヨーク=フィルハーモニー=オーケストラの常任指揮者レナード=バーンスタインや,日本を代表するクラッシック音楽家である小澤征爾や武満徹らも先を争って聴き絶賛したというこのアルバム,実は1曲のヒットシングルも含んではいない。しかし,このアルバムには60年代の若者たちの"すべて"が歌われていると言っても過言ではなかった。マリファナやLSDなどの幻覚剤の使用から生まれたサイケデリックなフラワー=ムーブメント(ヒッピーたちの文化),"愛と平和"(Love & Peace) 運動,インド哲学,老人問題,そして,世代の断絶(ジェネレーション=ギャップ)と,若者を取り巻く諸現象を見事に歌い上げた『サージェント・ペパーズ』は,戦後の混乱期を克服し新しい"世代のアイデンティティ"を求めはじめた若者たちの,一種の"独立宣言"となったと言ってよいだろう。そのアルバムに収録されている,地味で目立たないが大いに味のある曲がこの『シーズ・リーヴィング・ホーム』である。この曲においてポール=マッカートニーは,"自由"と引き換えに経済的充足を与えた"こども"に,最終的には「かけおち」という形で裏切られる哀れな両親の姿を描いている。"おとな"たちは,

「私たちは 娘のために 自分たちの人生を捧げてきたのに
  人生を 犠牲にしてきたのに
  お金で買えるものは 何でも与えてきたというのに」

もかかわらず,

「どうして あの子は 私たちに こんなむごい仕打ちをするのでしょう」 と,嘆き,

「私たちは 娘のために 自分たちの人生を捧げてきたのに
  人生を 犠牲にしてきたのに
  お金で買えるものは 何でも与えてきたというのに」

 「私たちは決して 自分たちのことなんか考えずに来たのに
  自分たちのことなんか 考えなかったのに
  私たちはあの子に欲しい物を買ってやろうと 一生懸命努力して来たのに」

最愛の娘に"裏切られて"しまい,世を哀れむしかないのである。しかしながら,彼ら"おとな"には,いまだ,

「私たちが 何か悪いことをしたのかしら 何がいけなかったのかわからない」

のである。

 一方娘の側では,外見上は両親の大きな愛情に包まれて暮らしているように見えながらも,実はさまざまな束縛を受け,まったく自由を奪われており,

「何年も何年も たったひとりで暮したあげく 家を出て行く」

のである。そして,結局,念願の自由を「かけおち」という形で手に入れるのであるが,その相手は,当時時代の最先端を行く「自動車関係の男性」であった。こうして娘は,

「彼女の心の中にあるものは 何年も何年も
  父や母には 認められなかった」

挙げ句に,ひとり家を出てゆくのである。そして,哀れな両親はやっと最後の最後になって,

「『楽しみ』は お金で買えないものなのね」

と気づくが,後の祭りということになるのである。実に「世代の断絶」というものはこのようなものだと典型的な例を示してくれる名曲である。

 ところで,前に人間の妊娠期間は非常に短くゾウに比べれば約半分の期間に過ぎないと述べた。実際,草原で暮らす馬や鹿などの動物は,母体から生まれ落ちるとすぐに立ち上がり母親の後を追って歩きはじめる。弱肉強食の自然界にあってはそれが生き残るためには必要不可欠であるからだ。しかし,人間の赤ん坊は生物としては非常に不完全な姿で生まれてくるのだとも述べた。人間が馬の新生児並の行動が取れるようなってくるのは生後約一年を経てからのことであるから,その意味で,人間は実は予定より一年も早く生まれてきていることになる。これを"生理的早産"と呼ぶ。では,なぜそんな"ルール違反"が可能となるのであろう?それは,ひとえに"文明"の力である。立ち歩くことはできなくても,人間には我が子を抱き締めて逃げる母の腕があり,寒さをさえぎる衣服があり,外敵から身を守る様々な道具がある。つまり,人間は文明の力によって妊娠期間を短縮し母体の負担を軽減してきたのである。しかし,このことはまた逆のことにも作用する。多くの野生生物(特に哺乳類)が,一定期間の子育てを終わるといわゆる"子離れ"を行う。キタキツネなどの子離れの様子がテレビなどでよく見聞されるが,これはときには2つの固体の壮絶な戦いとなり,自らの生存圏をかけての死闘ともなる。見方によっては哀愁を誘うドラマチックなシーンであるが,"生きる"ためのやむを得ない選択ということができるのだろう。しかし,一方人間はどうであろうか?人間は"文明"を持ったため,日常的に生命の危険にさらされることは少なくなった。医学の発達した現代はなおさらである。しかし,そのため逆に親子の関係は自然界の法則には反するようになったのではないだろうか?つまり,子離れをしなくとも,確立した親の経済力は"こども"を養い続けることが可能であるし,"こども"も敢えて厳しい現実社会へ出てく必然性がない。少子社会がますますその傾向に拍車をかけた。しかし,"こども"はいつかは"自我"に目覚める。何かしたいことがある,行きたいところがある,欲しいものがある−しかしそれが親の価値観と相容れないものであるとき,そこには両者の対立が始まる。これは,おそらく太古以来繰り返されてきた人間の営みであるのだろう。現に古代エジプトの象形文字の文書の中にも「最近の若い者は…」という老世代のボヤキが書き記されているという。それでも,それも戦前は何とか丸く収まっていた。それは,大多数の一般大衆にとって"こども"には"読み・書き・そろばん"といった初等教育以上のことは期待されず,"こども"はある一定の年齢に達すると"おとな"と同じ仕事を始め,その時点から"おとな"としての扱いを受けることになったからである。ところが複雑になった現在のハイテク社会では,"こども"が"おとな"になるためには非常に多くの知識・技術の習得を求められるようになった。そのために,青年期は時代がくだるにしたがって加速度的に延長されてきたと述べた。つまり,現代とは「"こども"が"おとな"になりにくい社会」ということができるだろう。しかし,ここに奇妙な現象も現れてきた。

 かつて"こども"は,早く一人前の"おとな"になりたいと願い,柱の傷が柱を登ってゆくのを楽しみにし,成人式を迎え「さあ今日から"おとな"の仲間入りだ」と誇らしげな気持ちになったものである。ところが,現代は逆に"こども"は慌てて"おとな"になる必要がなくなってしまった。高まった親の経済力は多くの"こども"が高等教育を受けることを可能にし,"こども"も豊富なアルバイト先を持ち"社会的責任"を余り感じることもなく,かつての"おとな"顔負けの"経済的自由"を享受することができるようになった。そのため「このままの方が楽ちんさ」とばかりに,"おとな"になることを忌避する「成長した"こども"」たちが登場したのである。彼らはかなりの経済的自由を持ちながら社会的責任を回避できるという特権を持ち,本来なら中途半端で苦しいはずの"マージナル・マン"の時代を大いに楽しみ,このままいつまでも社会が自分が"おとな"になるのを待っていてくれればいいと願う"モラトリアム人間"として現代社会に非常に大きな地歩を築くようになった。

 このように,"おとな"になりたくない"こども"の登場が1980年代ころからの問題点となりつつある。現在の"ニート"と呼ばれる人たちはその進化形であろう。現実社会の荒波にもまれることをよしとせず,いつまでも"おとな"になりたくない"という"こども"の登場を"ピーターパン=シンドローム"という。童話の主人公で決して"おとな"になることがない「永遠の"こども"」ピーターパンのように,"こども"であることを楽しみ"おとな"にはなりたくないという心の状態のことを指すが,青年文化の面から見るならば,たとえばそれは,アメリカのマイケル=ジャクソンの大成功を生み出した。80年代半ばに世界的スーパースターとなった彼は,黒人でありながら整形手術を繰り返し白人のような顔になり,男でありながら女性のようなかん高い声で歌い,そして何よりも,れっきとした"おとな"でありながら,いつまでも"こども"のようなムードを持ち続けている。(実際,ハリウッドの彼の屋敷の敷地内には,ピーターパンの住む世界の名前である"ネヴァーランド"と名づけられた遊園地まで存在する。)このこともまた,「青年期」のあり方は時代とともに移り変わるものだということを如実に表す一例であろう。

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