「ロックで学ぶ現代社会」rock meets education
第1部 『現代社会における人間と文化』〜現代社会の特質と青年期の課題
第6章 青年期の愛と性
1."愛"って何
*B 君 「先生!」
*大 坂 「何ですか,大きな声で。」
*B 君 「現代社会の教科書を見ると,『友情』の次に『青年期の愛と性』っていう項目がありますが,これはいつ授業するんですか?」
*大 坂 「何?楽しみにしてたんですか?」
*B 君 「はい,高校入学したときからそれだけを楽しみに生きてきました。」
*大 坂 「心配しなくていいよ。いよいよ,ついに今日から,この時間から,『青年期の愛と性』だ!」
*B 君 「やったー!」
*Aさん 「やーね,B君。何考えてるの?それに先生も,本当にそんなこと学校で授業するんですか?先生の趣味じゃないの?」
*大 坂 「ばかなことを言うんじゃない。ちゃんと教科書にも載っているし,青年期の諸問題の中で最も大切に考えていかなければならない問題のひとつがこの『愛と性』の問題なんだ。君たちにとっても最も関心ある事がらのひとつだということがこの調査からも分かるね。」
◎「元祖『光南高校新聞』第3号 1996(平成8)年2月1日号 より 数字は%
*大 坂 「ね,みんな興味津々で彼氏や彼女が欲しくてたまらないのだけれど,なかなか現実は厳しいのだという調査結果だね。」
*Aさん 「はぁ,そんなもんでしょうか?」
*大 坂 「当たり前じゃないか,Aさん!そもそも愛と性とは…。」
*B 君 「先生,いやに力が入っていますね。」
*大 坂 「いや,これは私としたことが面目ない。つい夢中になってしまって,は,は,は。」
*Aさん 「何考えているんだか?」
*大 坂 「ルソーは青年期を『第2の誕生』と呼んだ。『私たちは,いわば2回この世に生まれる。1回目は存在するために,2回目は生きるために。はじめは人間に生まれ,次は男性か女性に生まれる…』とね。つまり,"青年期"とは人間が性に目覚める"性年期"でもあるんだ。」
*Aさん 「それはなんかいやですね。確かに,私も"すてきな彼が欲しい"とか,"映画みたいな恋をしてみたい"なんてことは思うことあるけれど,男子みたいに"性"とか,そんな嫌らしいことは考えたことありませんもの。」
*B 君 「あぁ,嫌らしくて失礼しましたねっ!」
*大 坂 「まぁまぁ,B君も本当のことを言われたからといってそんなに怒るなよ。ただねAさん,"愛"と"性"の問題はやっぱりどうしても切り離せないことなんだ。だって,お父さんとお母さんが愛しあったからこそ君たちがここにいるんだろう?」
*Aさん 「愛しあっているかどうかは別にして,とりあえずもちろんそのとおりですけどね。だけど愛=性と考えるのは嫌です。だって愛ってもっときれいなものでしょう?」
*大 坂 「それはどうかな?"性"を汚いものとは考えてほしくないね。だって人間が人間としてこの世に存在し続けるためには,"性"は絶対に避けて通れない問題だろう?"性"とは"生"。すなわち"生きる"ことなんだ。外国語だってそうだね。英語では,愛=loveと生きる=liveはそっくりだし,ドイツ語でも愛する=liebenと生きる=leben はよく似ているだろう。つまり『愛する』とは『生きる』ことなんだ。」
*Aさん 「何だか,うまく丸めこまれたような…。」
*大 坂 「文句を言うな。さあ授業を始めるよ。」
*B 君 「でも,そんな難しい問題をどうやって授業するんですか?」
*大 坂 「別に難しいことではないよ。君たちの年頃はみんな恋に憧れ,彼氏や彼女が欲しくてたまらなくなり,いったん好きな人が現れたらその人のことを思って夜も眠れなくなり,失恋すれば世界が滅びたような気分になる。それを『青年期の特質』に沿って考えていこうというだけさ。もちろん,ロックを聞きながらね。」
*B 君 「結局はそこに行き着くわけですね。」
*大 坂 「もちろんそうさ。…ところでAさん。君,今好きな人いる?」
*Aさん 「何ですか,また突然!いませんよ,そんな人!」
*B 君 「いいよいいよ,Aさん,そんなにムキになって隠さなくったって。僕,君の気持ちは痛いほど分かっているから…。」
*Aさん 「B君,命が惜しくないみたいね…。」
*B 君 「いえ,滅相もございません。哀れなしもべに愛の手を。」
*大 坂 「あー,痴話喧嘩は授業が終わってからにしてもらえるかな。とりあえず,1曲聞いてみようよ。恋する今の君たちの気持ちはきっとこんなものじゃないのかな?」
EVERY BREATH YOU TAKE The Police 1983
見つめていたい ポリス 1983年
*B 君 「なるほどね,うまいこと言いますね。確かに好きな人ができるとほかのことが何も考えられなくなって,その人の動きを全部見逃すまいという気持ちになりますよね。笑顔ひとつ見逃しても,もったいないみたいなね。」
*Aさん 「あら,それでB君は毎日私のこと見ていたの?」
*B 君 「怒るよ!」
第2次性徴とともに青年は愛と性に目覚める。それはまさに疾風怒涛のごときエネルギーで,しばしば若者自身がそれを持てあますほどである。しかし,そこにはまた青年期であるがゆえの悩みや苦しみが生まれてくる。たとえばイヌやネコなら,発情期が訪れて適当な相手がいさえすればその場で交尾を行い子孫を残すことが可能である。家畜やペットならそこにいくらかの人間のコントロールが介入するが,野生動物に関してならそれはまったくフリーである。しかし人間はそうはいかない。長い間かかって築いてきた文明は,ヒトの自由な性関係を不可能にした。それは一番には,『財産分与』の問題が『誰の子か』ということを厳密に区別する必要を感じるためである。そのため一部の発展途上社会では現在でも我々の社会では考えられないような"自由な"性関係が見られるし,戦争で男手が不足した初期イスラム社会では社会的弱者の女性を扶養する必要から一夫多妻制を容認した。すなわち人間の性関係は,『生物としてのヒト』の性と,文明によって規制された『人間としての愛と性』の2つに大分されるのである。またその文明社会の中で,『青年期』とは「もう"おとな"と同様の性的能力を有するが,まだ"おとな"と同様の社会的責任(結婚・育児など)を果たすことができない」マージナル・マンであるがゆえに,性行動はタブーとされる時期である。平たく言えば,燃え上がる胸のエネルギーを燃焼させる場が存在しないために慢性的なフラストレーションに陥り,そこからさまざまな問題行動も生まれるし,また逆にすばらしい芸術やスポーツでの輝かしい成果も生まれてくるのである。心理学者のフロイトが言うように人間のすべての行動を性のエネルギーに帰することは無理があるとしても,少なくとも青年期の行動の多くはそこに根を下ろしていることは間違いない。しかし,それだからこそ女子高生のAさんは『生物としてのヒト』の性行動を"イヤラシイ"と言ったのであって,文明人としての人間が野生動物の性関係を否定的に見ているということであるが,人間も『生物』である以上それを無視することはできない。もちろん"イヤラシイ"と言って片づけられる問題ではない。ここでは,愛と性をその両側面からとらえてみたい。
*B 君 「それはそのとおりですね。でも,先生は『ロックで学ぶ現代社会』をテーマにしているんでしょう?ラブ・ソングなんて山ほどあるんだから,そんな難しい話ばっかりしていると音楽を聴く時間がなくなりますよ。」
*Aさん 「そうですよ先生。ラブ・ソング聞くだけで卒業まで時間が持ちますよ。楽チンですね。」
*大 坂 「そうはいかないよ。確かに,ラブ・ソングはロックの分野だけに限っても何千何万とあるからね。そこはテーマに沿って取捨選択する必要がある。とりあえずこの曲を聴いてもらいたい。私が知っている中で最も美しいラブ・ソングです。」
LOVE John Lennon 1970
愛 ジョン=レノン 1970年
2.エロースとアガペー−"愛"のふたつの形
*Aさん 「なるほど。確かにガラス細工みたいにキラキラ輝いている曲ですね。短い曲だけれど『愛とは何か』をズバリ教えてくれるみたいな…。」
*B 君 「でも,これで『愛とは何か』という問題に結論が出てしまったんですか。何かちょっとツマンナイですね。」
*大 坂 「ハ,ハ,ハ,結論を出すのはまだ早いよ。確かにこの『愛』という曲はあるひとつの愛の形を提示してくれているね。だけど,愛には実は2種類があるんだ。」
*Aさん 「さっきおっしゃった"生物としての愛"と"文明人としての愛"ということですか?」
*大 坂 「簡単に言えばそうだけれど,もう少し詳しく話をさせてください。」
ジョン=レノン(1940〜80)はビートルズ解散直後,"John Lennon" (邦題『ジョンの魂』)というソロ・アルバムを発表した。このアルバムはノイローゼに悩む彼が,アメリカ人精神科医アーサー=ヤノフ博士の"プライム・スクリーム"(原初の叫び)療法を受けた結果制作された。患者がカウンセリングを通して医師の質問に次々と答えてゆく中でさまざまな過去を思い出し,ついには精神的障害の原因となった事象を記憶に呼び覚ます。しかし,彼はそのとき深層心理の下に抑圧されていた昔々の"忘れたい過去"を思い出し,あまりの恐怖に"叫び声"を上げる。そして,その原因を取り除くための治療を行うことによって患者の治癒をはかる。これがいわゆるプライム・スクリーム療法である。ジョン=レノンはこの治療を受けることによって悪夢的なさまざまな過去(幼少年期における父の蒸発,母の死など)と決別し,"ビートルズである自分"を捨て,新しいジョン=レノンとして心の中のすべてを吐露し,2番目の妻小野洋子と新しい人生を歩むことを宣言することになった。そして,その『ジョンの魂』の中の印象的な1曲がこの『愛』である。この曲の中でレノンは,
「愛とは 愛されたいと 望むこと」
「愛とは 愛されたいと 願うこと」
「愛とは 愛されることを必要とすること」
と,繰り返す。そしてこれこそが,ギリシア語で"エロース"と呼ばれる愛の定義なのである。
エロースとはもともとはギリシア神話の愛の神のことである。普通は翼を持つ少年の姿で表される,ローマ神話ではクーピードゥス(キューピッド)と呼ばれる神のことである。この神は富裕の神と貧乏神の間にできた息子であり,常に美しいもの価値あるものを求めてさ迷う。すなわちエロースの愛とは「価値あるものを求める心」のことであり,たとえば「おいしいものが食べたい」「かわいい彼女が欲しい」という気持ちがそれに当たる。前者は食欲,後者は性欲と置き換えることもできるが,それは結局"自分のための愛","奪う愛"である。食欲がなくなれば人間は固体を維持できなくなり命を落とし,性欲がなくなれば人類という"種"が地球上から消えてしまう。つまり人間は,他の生物の命を奪いそれを食しなければ生きてゆけず,出家僧のように性欲を消し去れば,その遺伝子もともに消滅するのである。結局本能に支えられた"欲望"がエロースであるとも言えるが,エロースはただそれだけにとどまらず,「美しい音楽が聞きたい」とか「尊敬する人物と語り合いたい」というように,自らにとってプラスとなる自らを高めようというような気持ちのことを総称する。だからこそ,これは極論を言えばイヌやネコのみならず,昆虫やさらなる下等生物にも存在する"感情"である。
ところで,人間の脳の大部分を占める部所を大脳皮質というが,これは"古い皮質"と"新しい皮質"の2つに分けられる。"新しい""古い"といっても新品とか中古というような意味ではない。"古い皮質"とは人間がサルと同様の存在であった時代から持っている部分であり,ここは主に食欲,性欲などの本能の部分を司っている。これがなければ人間は生物として生きていくことができない。したがって,事故などによってこの部分を損傷すれば死に直結するし,その性質上下等生物にも(大きさはともあれ)存在するものである。これに対して,"新しい皮質"は人間がその進化の過程で獲得してきた新しい脳である。この部分は類人猿などの高等生物にはいくらか見られるが,下等生物にはほとんど存在しない。したがって"人間独自の脳"ともいうことができるだろう。そしてここは,言語とか数学的計算とかいった"知能"を司っている。そしてもう見当がつくように,エロースと呼ばれる価値あるものを求める愛は"古い皮質"でコントロールされ,もうひとつの愛が"新しい皮質"によって生み出される。それが,同じくギリシア語でいう"アガペー"である。つまり人間は,他の生物には見られない"独特の愛"を持っているのである。
*B 君 「つまり"エロ本"何て呼ぶぐらいだから,エロースがイヤラシくて,そのアガペーというのが立派な愛なんですね。」
*大 坂 「ちょっと待ってくれよ。決してそうじゃないんだ。エロ本とかエロ・ビデオ何てところに使われる"エロチック"という言葉は,確かにエロースの一面をとらえた"性欲を刺激するような"という意味に使われてはいるんだが,エロースは決してそれだけのものじゃない。たとえば美しい音楽を創りたいとか美しい絵を描きたいというような気持ち,これもエロースだけれど,それがなければモーツァルトもビートルズもダ=ヴィンチもセザンヌも登場しなかったわけだよ。あるいは,暑さ寒さをしのぎたいという気持ちがなければエアコンは発明されなかったし,鳥のように自由に空を舞いたいと考えなかったら飛行機も発明されなかったってわけさ。つまり,エロースがなければ文明なんてものは存在にないことになるね。」
*B 君 「なるほど,僕が週刊誌のグラビアを見つめる気持ちはモーツァルトの芸術並の崇高な感情だったってわけか。」
*Aさん 「もー,すぐその気になって…。」
*大 坂 「崇高かどうかは別として,ルーツは同じところにあるわけさ。」
*Aさん 「ということは,男女の愛は子孫を残すための利己的な気持ちから始まるから,100パーセントエロースだってわけですか?」
*大 坂 「基本的にはそうかもしれないけれど,もし完全にそうなったら世の中レイプ犯だらけになってしまうんじゃないかな?やっぱり男女間の愛であっても,当然動物のそれとは違うものがあると思う。この新聞の投書を読んでみるとそんなことのヒントになるかもしれないね。ある女子大生が新聞に男女関係に関する投書を寄せたんだが,君たちはどう思うかな?」
◎『朝日新聞』 「手紙」欄 1988(昭和63)年 4月10日
最近の若い女性たちは,あまりに男というものを知らなすぎると思う。ひとつ例を挙げよう。 これは実際あった話だが,あるところにすごいプレーボーイがおり,彼には肉体交渉をもった女性が数えきれないくらいいたそうだ。だが,そんな彼にも一人だけどうしても手を出せない女性がいた。しかし彼女は他へ嫁いでしまい彼は非常に嘆き悲しんだという。 後に彼は「私はどうしても彼女にだけは指一本触れることができなかった。本当に彼女を愛していたんですねえ」と,言っていたという。この例から,男というものは本当に愛している女性にはそう簡単に手出しのできるものではない,ということが分かっていただけると思う。 たとえば,嫁入り前の若いあなたが彼と2人で夜道を歩いていると仮定しよう。もし彼があなたの手を握り,キスをしたり身体を求めようとすると,あなたは彼の甘い言葉にボーッとなり,たぶん彼の思うがままになってしまうだろう。彼は,別にあなたでなくても,他の女の人にも同じことをすることができるのだということを肝に銘じておいてほしい。 女性というものは,自分の好きな人でなければ体を許すことなどできないが,男性の場合,そのときそばにいた女性なら誰とでも寝ることができるのだ。そのいい例がやみの中で女性を襲う痴漢である。痴漢とは相手が20歳の若い女性でも40歳のおばさんでも,美人でもブスでもかまわない。とにかく女なら誰でもいいという性的衝動だけで女を襲うものなのだ。 だから,男を知らない若い女性たちに言いたい。もし,彼があなたに甘い言葉をかけ体を求めようとした場合,あなたは決して「彼は本当に私を愛してくれている」などと思ってはいけない。 彼は本当にあなたを愛しているのではなく,女なら誰でもいいという性的衝動だけであなたの体を求めようとしているのだ。彼が本当にあなたを愛しているのなら,結婚までそっとしておいてくれるはずだ。 いったいいつから,恋愛=肉体関係という観念が若い男女の間に芽生えてきたのだろうか。本当の恋愛とはもっと清く美しいものであり,肉体と肉体の結合ではなく,心と心の結合でなければならないと私は思う。 私のこの考えを古いという人があれば,私は古くて結構だ。間違っても「恋愛=肉体関係」という観念だけは持ちたくない。私のこの粗文を読んで,男性に対する認識を改めてくれる若い女性が一人でも増えてくれればと思いつつ,ペンを置く。 京都市 児玉優美 (大学生21歳)
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*大 坂 「ね,どう思う?」
*B 君 「ひどいよ。むちゃくちゃじゃないか!これじゃあまるで男はみんな性犯罪者みたいですよ!いいかげんにしてほしいな!」
*Aさん 「あらそう。まあ,確かに少々過激な意見ではあるけれど,本質はついているんじゃないかな?だって男子ってみんなエッチだもの。」
*B 君 「何をー!」
*Aさん 「何よ!」
*大 坂 「まあまあ授業中だからね,落ち着いて!変な話だが,聞くところによると男性の性欲が一番強いのは16歳頃だそうだ。そうしてみるとちょうど君たちの頃だね。また,それでも性欲の強い人と弱い人の間には3000倍もの差があるとも聞くんだ。そして厄介なのは,男と女の"性"に対する考えが高校生くらいのときってまるっきり違うことだね。よく"男は攻撃的"で"女は受動的"なんて言うけど,今みたいに性情報が氾濫している時代には『女性はおしとやかで男の前では口もきけなくなってしまう』なんてことは全くなくなってしまって,男と同じような,それも男の醜いところだけを持っているような女性も現われてきたもの。女子中学生や女子高生向きの雑誌のセックス記事の氾濫は国会でも問題になったことがある。話が少し長くなるけれど,問題はそんな中で君たちの"愛"と"性"に関する意識はどうだろうかということなんだ。いたずらに形だけを追っているんじゃないだろうかな。」
*B 君 「だって,僕らもう少し純粋に女の子のこと好きになっていますよ。」
*大 坂 「それはそうだと思うよ。だから,この投書は大きな反響を呼び,一月後には多数反論が寄せられたんだ。その中から2つの意見をピックアップしてみよう。」
◎『朝日新聞』 「手紙」欄 1988(昭和63)年 5月7日
「最近の若い女性は,男をあまりにも知らなさすぎる」ですって。そういうあなたは,本当の恋愛を知らないのではないでしょうか? あなたは「男性は女性なら誰とでも寝ることができる。そのいい例が痴漢である」,また「彼が,あなたに甘い言葉をかけ,体を求めようとした場合,決してそれは本当に愛しているからではなく,女性ならだれでもという性的衝動だけで求めているのだ」と書かれていましたね。確かに,中にはそういう男性もいるかもしれません。が,普通名詞として男性イコール痴漢扱いするのは,やめて下さい。 私には,いま愛する人がいます。まだ正式に婚約はしていませんが,心の約束で固く結ばれています。あなたの手紙を読んだとき,彼自身が汚された気がして,腹が立ちました。彼は女性なら誰でも,という人ではありません。 長距離ランナーの彼は毎日,雨の日も雪の日も練習を休まず,仕事を終え,暗い夜道を黙々と走っています。その彼を見ていると,「あー,私なんかよりよっぽど純粋な人だわ」と思い,涙さえ出るのです。 「走ることだけが取りえだから」と言って笑う彼のいちずな姿を,私は尊敬し誇りに思っています。 私にとって,本当の恋愛とは相手を信頼できるかどうかです。相手を信頼することができれば,その人を理解することも慰めることも,そして愛することも自然にできるはずです。真の愛とは信頼です。 あなたは「恋愛イコール肉体関係ではない」と,書かれています。それは私も同感ですが,肉体関係があるからと言って,その愛が汚いものだとは言えないのではないでしょうか。 互いに信頼し,信頼された心と心の結びつきにより体と体が結ばれるのです。信頼という心のきずながある"肉体関係"であれば,その恋愛は清く美しいものであると,私は思います。男性が性的衝動だけで女性を求めるような汚い言い方は,しないで下さい。 あなたは「信じる」という大切な気持ちをどこかに忘れてきたのではないかしら。 広島県 病院勤務(24歳)
************************************* 4月10日の児玉優美さんの文章を読んで,ひどくいたたまれない気持ちになりました。「間違っても『恋愛=肉体関係』という観念だけは持ちたくない」という主張についてとやかく言うつもりはありません。 問題なのは,児玉さんが,男はすべて「すごいプレーボーイ」か「やみの中で女を襲う痴漢」で,「女なら誰でもいいという性的衝動だけであなたの体を求めようとしているのだ」と,決めつけようとしていることです。 世の中には星の数ほどの男がいます。児玉さんの言われるような男が決していないとは言い切れません。しかしすべての男がそうだと決めつけられ,拒絶されてしまったら,私たち男は児玉さんにいったい何を申し上げたらいいのでしょうか。 「心と心の結合」を求めているはずの児玉さんが,私たち男に対して固く心を閉ざしているとしか思えないのです。 児玉さん,あなたの信念を変える必要はありません。けれどももっと心を開いて,世の中にいるたくさんの男たちを見てやってください。そして男を見る目を養って下さい。「プレーボーイ」でも「痴漢」でもない男たちがたくさんいるはずです。 京都市 山田岳之 (聴講生 28歳)
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*B 君 「なるほど,この最初の投書をした女子大生は男の"愛"はエロースのみであると言い,反論をした2人はそれだけじゃないそのほかの要素もあるんだって言っていますね。つまり,その"ほかの何か"がアガペーってやつなんですね。」
*大 坂 「まあ簡単に言えばそういうことかもしれないんだけれど,それだけじゃ説明できないね。実はアガペーというのはキリスト教における"神の愛"だとされるんだ。人間は,特に男女の間においては,基本的には自分のために,自分が生きるために人を愛するんだね。だから『君なしでは生きていけない』なんて言うだろう。だけどこれは一面ではとっても自分勝手なことでもあるからね。ただ,それがエロースの本質だ。だけど,神様はそうじゃない。神は自分のためにではなく,人間のためにだけ人間を愛してくださる。つまりエロースが見返りを求める"有償の愛"であるのに対して,アガペーは"無償の愛"ということができるかもしれないね。でも,今日はもう時間がないからその話は次の時間ということで,もう一曲音楽を聴いて授業を終わりにしようよ。」
*Aさん 「賛成!いい話だったけど,ちょっと疲れちゃった。」
*B 君 「で,今度はどんな曲ですか?」
*大 坂 「エロースの話の締めくくりとして,さっき話した通り"君なしでは生きていけない"っていう,ニルソンの『ウイズアウト・ユー』だ。究極のエロースを歌った歌だと思うけど,この曲を聴いて"イヤラシイ"なんて思う人はいないでしょう?」
WITHOUT YOU Nilson 1972
ウイズアウト・ユー ニルソン 1972年 (オリジナル:バッド=フィンガー)
3.無償の愛−アガペー
*B 君 「さあ先生"愛"の話の続きをお願いしますよ。今日は遅刻せずに来たんですから。」
*Aさん 「今日はアガペーの話でしたね。」
*大 坂 「そうだ。見返りを求めない"無償の愛","神の愛"のことを言うのだったね。今日は最初に『新約聖書』を読んでみよう。」
*B 君 「何か難しそうですねえ。」
*大 坂 「そんなことはない。『聖書』は読み物として読んでも結構おもしろいんだよ。その中から"放蕩息子の譬え"を読んでみてほしい。」
◎『新約聖書』-「ルカ福音書」第15章-83 中央公論社 中公バックス 「世界の名著」31 『聖書』責任編集:前田護郎 彼(イエス)はいわれた,「あるひとにふたりの息子があった。弟が父にいった, 『父上,財産の分け前をわたしにください』と。父は身代をふたりに分けた。いく日もせぬうちに,弟はその分全部をまとめて遠い国へ行き,そこで放蕩に財産をばらまいた。皆使いはたしたとき,その国にひどい飢饉があって,彼は困窮しだした。そこでその国に住むある人に身をよせると,畑へやって豚を飼わせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思ったが,だれもそれをくれなかった。そこで本心に立ちかえっていった,『父上のところではあれほど大勢の雇人に食べ物が余っているのに,わたしはここで飢え死にしようとしている。出かけて父上のところへいっていおう。父上,天に対しても,あなたにむかっても,わたしは罪を犯しました。もはやあなたの息子と呼ばれる資格はありません。あなたの雇人のひとりのようにしてください,と』。そこで出かけて父のところへ行った。ところが,まだ遠く離れているのに,父は見てあわれみ,走りよって首を抱いて口づけした。息子はいった,『父上,天に対しても,あなたにむかっても,わたしは罪を犯しました。もはやあなたの息子と呼ばれる資格はありません』と。 しかし父は僕(しもべ)たちにいった,『早く一番よい着物を持って来て着せなさい。手に指輪をはめ,足に靴をはかせなさい。それから肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おう。このわたしの息子は死んでいたがよみがえり,失われていたが見つかったから』と。 そこで祝が始まった。兄は畑にいたが,帰りに家に近づくと,音楽や踊りが聞こえた。そこで下男のひとりを呼びよせて,あれは何かとたずねた。下男はいった,『弟様がお帰りです。無事に戻ったとて,お父さまが肥えた子牛をほふらせなさいました』と。 兄は怒って家に入ろうとしなかった。父が出て来ていろいろなだめると,父に答えた,『ごらんのとおり何年もわたしはあなたにお仕えし,一度もお言いつけにそむいたことはありません。それだのに,わたしには友だちと楽しむために山羊一匹も下さったためしがありません。ところがあのあなたの息子が遊女といっしょにあなたの身代を食いつぶして帰ってくると,肥えた子牛をほふるとは』と。父はいった,『子よ,おまえはいつもわたしといっしょだ。わがものは皆おまえのものだ。しかし,よろこび祝わずにおられようか,このおまえの弟は死んでいたが生きかえり,失われたが見つかったから』と」 |
*Aさん 「どういうことですか?このお父さん,何だかとってもお人好しだけど。」
*大 坂 「つまりね,神の愛とはこの父の愛のようなものだというんだ。普通他人だったら,"できのいいものを愛し,できの悪いものを憎む","自分に対して利益を与えてくれるものを愛し,損害を与えるものを憎む"というのが常識だろう。ところが父親というものは違う。父親はその息子ができが悪いからといって憎むことはない。どんな息子でも平等に愛するのだ,ということだね。神の愛はこのようなものだ。すべてを言い尽くしたとは言えないけれど,アガペーの一端を述べているんじゃないかな。」
*B 君 「そうですか?うちのおやじなんてお姉ちゃんばっかりちやほやして,僕なんか『おまえはアホだ』とつらく当たるばかり…。ああ,かわいそうなア・タ・シ。」
*Aさん 「私があんたのお父さんでもそうするわ。」
*B 君 「あー,ますますかわいそうなア・タ・シ!」
*大 坂 「気持ち悪いからもうやめなさい!もちろん世の中にはいろんな親もいるだろうけれど,一般的に言ってこのような気持ちをアガペーと言っていいのじゃないかな。そのほかにも『聖書』にはこんな記述もあるよ。」
◎『新約聖書』-「マタイ福音書」第6章-21
それゆえ,あなた方にいう。何を食べようかと命のことを,何を着ようかと体のことを心配するな。命は食べ物に,体は着物にまさるではないか。空の鳥を見よ。まかず,刈らず,倉にしまわないが,しかも天にいますあなた方の父が養いたもう。あなた方は彼らよりはるかにまさるではないか。心配によってあなた方のだれが寿命をちょっとでも延ばせるか。また,着物について何を心配するのか。野の花がどう育つかつぶさに見よ。苦労せず,紡ぎもしない。繁栄の極みでのソロモンさえその一つほどに着飾れなかった。きょう盛り,あす炉に投げ込まれる野の草をも神はこれほど装いたもう。ましてあなたがたを,でないか…, |
*Aさん 「なるほでね。でも先生,僕はキリスト教徒じゃないんですけれどどうしたらいいんですか?」
*大 坂 「まあ,キリスト教徒かどうかは関係ないと思うけどね。仏教にだってこんな考え方がある。鎌倉時代の有名なお坊さん親鸞の言葉だ。」
◎『歎異抄』 唯円 編
「善人なをもて往生をとぐ,いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく,悪人なを往生す,いかにいはんや善人をやと。」 |
*B 君 「何ですか?さっぱり分かりませんが。」
*大 坂 「つまり,『世間の人は,よい行いをした人こそ仏様に救われて極楽へ行けるが悪人は地獄へ落ちるのだと言うけれど,仏様は決してそのような心の狭いお方ではない。よい行いをした人でさえ仏様に救われて極楽へ行けるのだから,悪人が行けないはずがない。仏様はそのような弱者をこそ選んで救ってくださるのだ』という意味だよ。仏教では『慈悲』という言葉を使うのだけれど,これもやっぱり"無償の愛"だね。」 (
*注:「悪人」というのは「犯罪者」のことではなく,仏教の戒律を守っていない人。つまり,猟師などのように殺生を職業としたり,かつては卑賤な職業とみなされていた商業に従事する人たちのことを指す。)
*Aさん 「だけど,みんなすごく昔の人ばっかりですね。現代は弱肉強食の世の中だから,もうそんな"無償の愛"なんてすっかりなくなっちゃったんじゃないんですか。」
*大 坂 「そんなことはないよ。現代,と言っても60年ほど前になるけれど,こんなことがあったんだよ。」
◎早乙女勝元『アウシュビッツと私』草土文化社
令文社『96高校生のための新現代社会資料集』215ページより転載 (一部書き換え:大坂) 1933年,ドイツでヒトラー率いるナチス党が政権をとると,彼らは独裁体制を築き上げヨーロッパの征服を開始します。そのなかで,国内の自由は弾圧され,ナチスに反対する者は次々と逮捕され「強制収容所」へ送られました。彼らはそこで死ぬまでこき使われて,働けなくなった者や女や子ども,そしてユダヤ人は(ただユダヤ人であるというだけで)裸にむかれ,毒ガス室で「屠殺」されたのです。彼らの皮は剥がれそれでカバンが作られ,脂肪は抜き取られ石鹸が作られました。このような収容所はナチス占領地区に900ヵ所以上もあり,400万とも600万とも言われるユダヤ人を含めて信じられないほどの多数の人命がヒトラーの命令のもと虐殺されたのです。 さて,その収容所のなかで最も有名な(いや「悪名高い」というべきでしょうか)ものはポーランドにあったアウシュビッツ収容所でした。第2次世界大戦中,ここにポーランド生れのマキシミリアノ=マリア=コルベ神父が収容されておりました。神父は1894年生れで,1930年には長崎に伝導に来て6年余りを日本で過ごしたこともある人でした。帰国してからは神学校でスコラ哲学(キリスト教神学)を教えておりましたが39年に,ナチスの政策に批判的だったということで捕らわれ,幾つかの収容所を引き回されたあげくアウシュビッツに連行されたのです。 収容者として強制労働にたずさわっていたところ,ある日脱走者が出ました。一人でも脱走者が出れば,SS(Schtz-Staffel ナチス親衛隊)はその見せしめとして無差別に10人あるいは20人を選び,脱走者が捕まるまで水も食物も与えることなく地下室に閉じ込めたままにするのです。この「餓死室」から生きて再び帰ってきたものはいません。 しかし,ガス室行きの選別よりも生死を賭けて逃亡の機会をねらう囚人は少なくなく,41年7月末にまた逃亡者が出ます。そこで餓死室行きの10人が選ばれましたが,神父はそのなかには入っていませんでした。そのとき選ばれた囚人のなかに,フランシーチェック=ガイオニックというひとりのポーランド人兵士がいました。彼は死ぬことがよほどつらかたのでしょう,「死への旅人」に選ばれると「さようなら,女房や子どもたちよ。おれの分まで長生きしてくれ…。」と声をあげて泣き叫びました。当然のことでしょう。しかしそのときです,ひとりの人物がつかつかと前に出て静かな口調でこう言いました。「私をあの人とかわらせてください。私には家族がいませんので…。」コルベ神父でした。 神父の要求は入れられて,兵士の身代りになったこの人は,餓死室の中で夜も昼も祈り続けて14日間,ついに一滴の水も口にできず,1941年8月14日壁に寄りかかったまま息絶えました。47歳の生涯でした。 なお,ガイオニック兵士は1945年戦争が終わるとアウシュビッツから奇跡の生還をとげ,コルベ神父の名が世界に知られるようになりました。 |
*Aさん 「あ先生,だめです。私こんな話弱いんです。エーン。」
*B 君 「なるほどこれがアガペーなんですね。人のために命をも捨てる。僕たちもこんな気持ちにならなくちゃいけないんですね。」
*大 坂 「もちろんこのコルベ神父のような気持ちはすばらしいけれど,だからといって,高校生が彼女が欲しい彼氏が欲しいという気持ちがいけないものだと言うわけじゃない。だけどもう時間だ。その話は次の時間にしよう。今日は最後にビートルズの『愛こそはすべて』を聞いて,愛のすばらしさを考えて終わることにしよう。」
ALL YOU NEED IS LOVE The Beatles 1968
愛こそはすべて ザ=ビートルズ 1968年
1967年6月25日世界初の全世界同時衛星中継テレビ番組として放映された『アゥワ・ワールド』にイギリス代表として出演したビートルズは,全世界に向けてこの曲のレコーディング風景を提供した。この曲はジョン=レノン独特の反語表現により"愛のすばらしさ"を歌いあげた曲である。この曲は"自由""平等"そして"博愛"を理念としたフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』から始まり,イギリス民謡『グリーン・スリーヴズ』,アメリカのジャズ『イン・ザ・ムード』などで終わる構成を持ち,"愛が世界を救う"という理念を高らかに歌いあげている。やがて小野洋子とともに平和運動に走るレノンのルーツはこの曲にあるといってもよい。
4.エロース vs. アガペー−青年期における"愛"の理想像
*B 君 「この間の授業では"愛"の問題が中心でしたけど,"性"はどうなったんですか?」
*大 坂 「おっとB君,いきなりそう来たね。」
*Aさん 「イヤだわB君たらぁ。だからイヤなのよ,男子ってエッチで。」
*大 坂 「なるほど,そりゃそうだ。」
*B 君 「ちょっと先生,何かフォローしてくださいよ。」
*大 坂 「じゃあね,今日は『なぜ男はエッチなのか』という話から始めることにしよう。」
*Aさん 「もう,何ですか先生まで。まじめに授業してくださいよ。(>_<)」
*大 坂 「まじめですよ。だってエロースとアガペーの話をしていたんでしょう。大いに関係がありますよ。」
*Aさん 「本当ですか?」
*大 坂 「本当ですよ。私が今まで嘘をついたことがありますか?」
*Aさん 「はい,あります。」
*大 坂 「ゴホン,まあ,それはそれとして。とにかくだ,青年期の諸問題について考えるときに"性"の問題を抜きにして話をすることは不可能でしょう。」
*Aさん 「はあ,そんなもんですかねぇ。」
*大 坂 「そうですよ。異性に対するエネルギーこそが,青年期のあらゆる問題の根底にあるんじゃないかな?良い意味でも,悪い意味でもね。」
*B 君 「それはやっぱりね…。好きな娘のためにだったら,何でもがんばってみようという気にはなるけれど…,でも,別にそんなイヤらしいことは考えていませんよ。」
*大 坂 「だから何度も言うように別にイヤラシイことじゃないんだって。スポーツも芸術も,それ抜きじゃあ考えられないところもあるだろう?だからこそそれを正しく考えていきたいということなんだ。」
*Aさん 「分かりましたから,話を続けてください。」
*大 坂 「Aさん,君,セックスしたいと思ったことある?」
*Aさん 「ちょっと,先生!なんですか!それ!セクハラじゃないんですか!教育委員会に訴えますよ!クビになりたいんですか!」
*大 坂 「ちょっ,ちょっと待ってよ。まじめに話をしているんだから。ちゃんと答えてくださいよ。」
*Aさん 「あるわけないでしょう!そんなこと!(`´)」
*大 坂 「なるほど。それじゃあ,B君は?」
*B 君 「えっ,それは,その,だから。えーと…(・。・;」
*Aさん 「うわー,B君そんな人だったの!,もう絶交!」
*B 君 「いや,だから,別に誰ととかいうわけじゃないけれど,一般論としては興味があるってことだよ。…もう,先生,何とか言ってくださいよ。男だったら分かるでしょう?」
*大 坂 「私に振られても困るけれどね,とにかく,この調査結果を見てください。」
*総理府調査(令文社『96 高校生のための現代社会資料集』より) 単位%
*大 坂 「注目すべきなのはね,『機会があればセックスしてみたい』と考えている高校生が男子は女子の25倍,『しないほうがよい,婚約まではしないほうがよい』は,女子が男子の3倍もいるということなんだ。そして全体的な傾向として言えることは,『男子はしたくてたまらないが,女子はそれほどでもない,あるいはしたくない』ということなんだな。」
*Aさん 「当たり前でしょう!」
*大 坂 「確かに『当たり前』のことなのかもしれない。でも,それがなぜ『当たり前』なのかを考えることは,青年にとって"悲しい性"を生み出さないための役に立つとは思わないかい?」
*B 君 「"悲しい性"って何ですか?」
*大 坂 「たとえば,今はどこへ行っても風俗産業が盛んで,お金さえ出せば男性は簡単に『性を買う』ことができるらしいね。」
*B 君 「聞いてきたみたいに言いますね。」
*大 坂 「もう,黙って聞きなさい。それに女性も,高校生や中学生までもが,ブルセラ・ショップとか,テレクラとか出会い系サイトなんかで自分の性を簡単にお金に換えることができるらしいね。」
*B 君 「また伝聞調ですね。」
*大 坂 「もー,ウルサイ!とにかくね,現代社会は性が倫理とか道徳なんかのモラルの問題を離れて,経済の問題として語られるようになってきているような気がしてならないんだ。だけど,それは本当に正しいことなのかな?」
*B 君 「確かにね。新聞とかテレビとか見るとそういう話題ってよく聞くけれど,確かに何かが間違っていますね。」
*大 坂 「そうだろう。エイズの問題とか女子校高生の望まれざる妊娠とか,援助交際とか不倫とか,そんな問題は結局"正しい愛と性"について考えることを怠った結果生まれてきた問題じゃないのかな?」
*Aさん 「"正しい愛と性"って一体なんですか?」
*大 坂 「何が正しいかは一口じゃあ言えないだろうけれど,結局は,男と女がお互いのことをよく知ることが大切−ということじゃないかな。特に青年期においてはね。さっきのセックスの話に代表されるように,男が『君のことを愛している』と言ったとき,そこにはたいていの場合『…だから君とセックスしたい』という気持ちが隠れているが,女性が同じことを言った場合,そんなことを考えている人は,きっとほんのわずかだろう。そういうことを知らいから"悲しい性"が生まれてくるんじゃないかな?」
*Aさん 「でも,どうして,そんな男女の違いが生まれてくるのですか?」
*大 坂 「それはね,これは私の考えだけれど…」
ある男性が,1年間に365人かまたはそれ以上の女性と性的交渉を持つことは決して不可能なことではない。そしてそうすれば,(実際にはありえないかも知れないが)理論的には,その男性は1年後に365人以上の息子や娘を持つことも可能である。ところが,女性はどうであろうか。女性も,1年間に365人かまたはそれ以上の男性と性的交渉を持つことは可能ではあるが,男性と決定的に違うことは,その結果として1年後に胸に抱くことのできる子どもは結局(普通は)たった"ひとり"だけなのである。つまり,女性は何人の男性と付き合おうとも,最後はたった1人の男性の子どもしか生めないということである。これは,どういうことなのであろうか。
生殖という行為は,つまるところ「自分の遺伝子を次の世代に残す」という作業である。しかし,それは大変骨の折れる作業でもある。だからこそ,種の保存のために生物がそれを厭うことのないように,そこには"快楽"が伴うのである。まさに神の摂理であろう。ところで,"遺伝子を次世代に残す"ということは,"(他の遺伝子ではなく)自分の遺伝子こそを次世代に残す"という極めて利己的な作業である。ところが,そのためのアプローチは,男性と女性というよりはオスとメスでずいぶん違うのである。すなわち,今述べたように,極論をいえば,男性は(生物学的)にはできるだけたくさんの女性と性的関係を結びできるだけたくさんの子孫を残すことが是とされる。なぜならば,少しでも多くの子孫を残せば,事故や病気でいくらかの命が失われることがあっても,生き残りその遺伝子をまた次代に伝えてくれる者が必ず残る。また,子孫の数が多ければ,一定の割合で何らかの障害を負ったり能力の低かったりする者も存在はするが,同様に優秀なものも残る。すると自分の遺伝子は安泰なのである。これは,魚類が何千万という卵を産む理由と同じである。つまり,男性は"プレーボーイ"である方が生物学的には有利なのである。一方,女性はどうであろうか。女性は一般的には1年間に1人の子孫しか残せない。ということは,その遺伝子のパートナー選びにはいきおい慎重にならざるをえない。もし,一時の間違いで自分がそれほど望まない男性と性関係を結べば,自分の遺伝子はその自分の望まない男性の遺伝子と一緒になってしまい,少なくとも1年間は棒に振る可能性が出てくるのだ。そしてその結果,その大切な自分の遺伝子をその次の世代に伝えることが不可能になるかも知れない。そうすれば,生物学的には,その女性は大変な不利益を被ることになる。だからこそ男性は「あっ,あの娘,カワイイから付き合ってみたい」と簡単に考えることができるのだが,女性は「高学歴・高収入・高身長」(ついでにハンサムで優しくおもしろい)の"3高"の男性を求めざるをえないのである。さらに極論を言えば,男性が一度の性行為で放出する精子の数を約3億とすれば,1か月では約90億の精子を生産するということになる。ところが,女性が排出する卵子の数は(普通は)1か月に1個である。"90億対1!"実はこの差が,男性と女性,特にまだ結婚・出産・育児などの問題を現実のものとして考えることができない青年期の男女にとっては,その性行動に如実に反映されるのである。したがって,これもまた極論をいえば,女性は男性のささやく愛の言葉を90億分の1に割り引いて考えなければならないし,男性は愛を語る前に,その気持ちを90億分の1に薄めてささやく必要があるかも知れない。
*B 君 「ちょっと待ってください,先生。それじゃあ,前に言ったみたいに,『男はみんなオオカミよ』って言うのと同じじゃあないですか。」
*大 坂 「そうだよ。」
*Aさん 「そら,ごらん。やっぱり男なんて,みんなオオカミなのよ。」
*大 坂 「いや,Aさん,それはちょっと違うな。」
*Aさん 「何言ってるんですか?先生が,今そうおっしゃったばっかりじゃありませんか。」
*大 坂 「いや,私が言いたかったのはね,『男はみんなオオカミの"素質"を持っている』ということなんだ。」
*B 君 「それは,どういう意味ですか?」
*大 坂 「つまり,もし人間が野生動物だったら,言い換えれば,大脳皮質の"新しい"部分がなかったら,男はみんな本能のおもむくままのオオカミになってしまうかも知れないということさ。逆に言えば,性的にものすごく興奮したり,お酒に酔っ払って理性がマヒしたりした場合には,ずいぶん危険な存在にもなるということだよ。だから,男も女も,そのことを十分承知した上で交際する必要があるということさ。人が人を愛するということはとってもすばらしいことだけれど,本当の愛を知るためには,おたがいがお互いのこと知るとともに,自分のことをよく知る必要があるんじゃないかと思うんだ。それが結局,ジョン=レノンが『愛』の中で歌った,"Love is knowing we can be."っていうことにつながるのじゃないかな。」
*B 君 「なるほどね,さすが大坂先生,ただのエッチなおじさんじゃなかったんですね。」
*大 坂 「B君,退学願いは事務室にあるよ。」
*B 君 「何をおっしゃいますか,先生。ご無体な。私は先生に死ぬまでついていきますって。」
*大 坂 「どうだか…。」
*Aさん 「そんなことはどうでもいいですけど,それじゃあ,どうして男と女は愛しあうのですか?エロースとアガペーの調和が大切とかおっしゃるんでしょうけれど,いちいちそんなこと考えて人を好きになんかなれませんよ。もう少し現実的なことを教えてくださいよ。」
*大 坂 「そりゃまあそうだね。"どうして人を好きになるか"か…?『…恋とか愛とかいったってしょせんは性欲の権化じゃないの。そんなことにエネルギーを費やすなんて馬鹿げてる。若いときには,もっとほかにすることが一杯あるのに。』なんて言う人もいるけれど,そりゃああんまり唯物的じゃないかなあと思う。私は恋愛ってこんなものだと思うんだ…。たとえばね,一人の男の子が一人の女の子を好きになるとするとね,その女の子のことを好きになればなるほどその彼女のことが素晴らしく思えてきて,やがて彼女が世界最高の人だと思うようになるときがあると思うんだ。そしてそうなると今度は真剣に"じゃあ自分はどうなのか?"と考えるときがくると思う。で,そうなるとね,彼女のことが素晴らしく思えれば思えるほど自分は彼女にとってふさわしい人間なのかどうかを悩むようになってきて,時として彼女が素晴らしく思えるあまり,しまいには自分は彼女に値しないまったくダメな人間じゃないかと思うときがくる。こんなに真剣な自己反省と自己否定は人を愛さない限り不可能だよ。恋愛ってそれだけでも意義があると思うけど,ただそれだけじゃなくって,その自己否定のどん底から今度はいかに自分が彼女にふさわしい男になるかという努力を始めると思うんだ。ものすごい努力をね。"恋する者は美しい"って言われるのは,その努力のせいじゃないだろうか?そしてそうやって努力を重ねるうちに,相手の女の子も自分の努力に気がついてくれて,もしうまく行ったら,彼女も彼に対して恋するようになってね,同じように自己否定をする。"この人は私のことをこんなに愛してくれているけれど,私は本当にこの人が思っているようなこの人にふさわしい女なのかしら"ってね。そして,今度はお互いに努力が始まる。いかにして自分が相手にふさわしい人間になるかっていう努力だ。これは,ひょっとしたらものすごく苦しいことかも知れないよ。でも,そうやってお互いに努力を続けて行って,"今こそ自分は相手にとってふさわしい人間になれた"と思う一瞬があったら,そんな瞬間はひょっとしたら訪れることのない人の方が多いのかも知れないけれど,それはもうそれで死んでもいいぐらいに価値がある瞬間じゃないかな。人間はみんなその一瞬のために生きているんだと思うよ。」
*B 君 「先生,恋愛小説でも書いたらどうですか?」
*大 坂 「実は,昔書いた小説の一説なんだ。」
*B 君 「言うんじゃなかった。(――;)」
*Aさん 「そうか…,人を好きになるってことは,自分自身のことをよく知って,自分がいかに相手にふさわしい人間になるかっていう努力するプロセスなんですね。」
*大 坂 「そうそう,結局それが自分を大切にしながら相手を愛するということ,"エロースとアガペーの調和"ということなんだね。」
*Aさん 「よく分かりました。」
*B 君 「ちょっと2人とも,あっさり納得して授業を終わらせないでよ。ロックはどうなったんですか?」
*大 坂 「おっと忘れるところだったよ。人を愛するということは自分のことをよく知り,相手のいいところだけではなく,欠点も含めてすべてを愛するということだったね。そんな曲があるよ。ビリー=ジョエルの『素顔のままで』だ。」
JUST THE WAY YOU ARE Billy Joel 1977
素顔のままで ビリー=ジョエル 1977年
ビリー=ジョエルは,アメリカのピアノ弾きのシンガー・ソングライター。『ストレンジャー』『マイ・ライフ』『オネスティ』など,美しいメロディとひとひねりある歌詞で70年代のアメリカのロック・シーンをリードした。『素顔のままで』は,1978年のグラミー賞(アメリカのレコード大賞に当たる)最優秀レコード賞及び最優秀歌曲賞を受賞した彼の代表作。シングル発売は78年2月。全米チャートナンバー3の大ヒットとなった。
*Aさん 「『そのままの君が好き』か,一回言われてみたいわ。」
*B 君 「言ってやろうか?」
*Aさん 「間に合ってます!」